チューリップと風車の国

キューケンホフ公園旅行記

早島 潮さんの旅行記

テーマ:

旅行記タイトル:チューリップと風車の国

旅行期間:2001/04/11〜2001/04/13

旅行記の内容:アムステルダム、ザーセスカンス、デン・ハーグ   
 

ブラッセル空港の入国審査の係員はやけに愛想がいい。
日本語を振りまいてはパスポートをちらっと見ただけで通してくれるから意外に早く入国審査を終えた。
迎えのバスに乗り込んで18時半にはアムステルダムへ向けて出発した。
2時間半の行程である。
ブラッセル市内を抜け出して郊外へ出ると折から木の芽時で木々の梢から萌えだした新緑がとても美しい。
今まで忍従の冬を凌いできた木の芽が一斉に迎春の喜TZBびを奏でているようにすら見える。
桜なのか胡桃なのか定かには判じがたいが満開である。
緑色の田野の先に点在する農家の屋根は橙色で周囲の景色の中に良く融けこんでいる。
空気はリンとしていて実に爽快である。


アムステルダム市街が近づくと飛行機の発着が頻繁に行われていることがよく判る空気が冷たいのでどの飛行機も派手に白い航跡を残して上昇し、或いは下降している3本も4本も航跡が交差している。
折から日没で太陽が高層ビルの合間に沈んでいく姿は感動的ですらある。


・航跡を 従え春日 街に落つ

翌朝、最初にアンネの隠れ家の見学に出向いた。

1926年にドイツのフランクフルトで生まれたアンネ・フランクは姉と両親の四人からなるユダヤ人家族であった。
ジャム用凝固剤を製造販売する会社を経営する父オットー・フランクの庇護下に裕福な生活を送っていたが、1933年ヒットラーがナチス党を率いて政権の座についたとき、身の危険を感じてオランダのアムステルダムに移住し暫くは安全に暮らしていた。


 ところが、1940年5月にマジノ線を突破して西部への侵略を始めたナチス軍が中立を宣言していたオランダを占領下に置いてしまってから状況は一変してしまう。
ナチスの党綱領に掲げるユダヤ人の非国家公民化政策でユダヤ系住民は公職から追われ、徐々に隔離されていくのである。
1942年7月6日アンネの一家は事務所裏の倉庫を改造した隠れ家に隠れ住むようになった。
1944年7月密告により連行されアウスシュビッツの強制収容所へ送られるまでのおよそ2年間にわたってこの隠れ家で書きつづった日記が「アンネの日記」で60以上の言語に翻訳されている。


隠れ家のある運河沿いのブリンセンフラハト263番地の建物には表の建物と裏の建物があって表の建物には父の経営する会社があり、一階が倉庫、二階から上が事務所と物置になっていた。
裏の隠れ家と表の事務所への往来は書棚で隠された秘密の出入口から行われた。
裏の隠れ家は当時の状態のまま保存され、博物館として一般の観光客に開放されている。
几帳面な字で書かれた日記のオリジナルも生々しい写真と共に展示されていて、戦争の愚かしさと人種差別に基づくホロコーストのおぞましさを訴え続けている。
これらの展示物を眺めていると当時の悲惨な生活が偲ばれてアウスシュビッツでのガス室のことに思いが及ぶと何とも名状しがたい身の毛のよだつ厳粛な気持ちにさせられる。





ゴッホ美術館にはあの燃え立つような向日葵とか糸杉の絵は少なく、僅かに1?2点あるだけであるが、馴染み深い自画像は数点展示されていた。
展示されている絵はなべてこれがゴッホの絵かと見直したくなるような筆致のおとなしい絵が多数展示さていて、ゴッホの知られざる一面を見ることができた。
そして興味をそそられたのは日本の浮世絵から多大の影響を受けたらしく浮世絵を模写したと思われるような作品が3点ばかり展示されていることであった。






アムステルダム郊外のザーセスカンス村で4基だけ残っている風車を見学した。
風の強いオランダでは動力源として最盛期には9000基以上の風車が全国至るところで見られたが、今では千基弱の数を留めるだけになっている。
産業革命以後動力源として蒸気、電気などにとって代わられたからであるが、オランダ産業の母体となったのはこの風車であった。
低地の国オランダでは干拓のための揚水機として風車が活躍しオランダの風景に欠かせない風物詩であった。




ザーセンスカンス村は干拓事業によって出来上がった土地であり、土地を区画して運河が縦横に走っている光景はオランダ独特のものである。


朝八時にアムステルダムのホテルを出発してキューケンホフ公園へ向かった。
とても寒くて4月とは思えない冷えこみである。
手袋を持ってこなかったので手がかじかんでしまい、バスの車内から外に出ていると冷たさが身に滲みる。


オランダと言えば何といってもチューリップであるが、この時期は開花にはまだ早く、畑では花が咲いているのを観ることはできない。
しかしこの公園では温室で色とりどりのチューリップの花や蘭の花を咲かせている。
もともとこの公園はヤコバ伯爵夫人の所有地で狩りの他に野菜やハーブの栽培に使用されていた家庭菜園であった。
これが1949年に花の公園として開園したのである。
七ヘクタールの広大な敷地にはチューリップを始め、ヒヤシンス、アイリス等の多種多様な球根の花の公園として著名である。
その花の数は六百万株にも及ぶという大規模なものである。
折から屋外の畑には黄色の水仙が今を盛りと咲き誇っていたし、チューリップも蕾が膨らみ始めていた。
温室に入るとそこにはありとあらゆる種類のチューリップが色とりどりに咲き誇っていて来園者の目を楽しませてくれる。
それにしても氷雨が降る程寒くて戸外には出たくなくなる程の悪天候であった。


公園を後にしてデン・ハーグへ向かった。
デン・ハーグで昼食を摂った後、デルフト・ブルーで有名な陶器工場を見学した。
レンブラントの絵を模写して作った大きな陶板画が印象に残った。


マウリスハイツ美術館には逸品が多い。



主なコレクションはレンブラント、フェルメール、ルーベンス、ファン・アイク、ヤン・ステーン等であるが、レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」やフェルメールの「デルフトの眺望」「青いターバンの女」が特に有名である。
美術館の建物自体もオランダで最も美しい建物の一つに数えられている。


政治の都市とも言われるハーグ市内の一角に湖の上に浮いているかのように見える美しい建物群がある。
ビネンホフと呼ばれる建物群で国会議事堂や総理府、外務省等の政府機関である。
国会議事堂は騎士の館が転用されたもので13世紀から17世紀に建てられた建物であり、華麗な中にも荘厳さを併せもった佇まいで、これがヨーロッパだと思わせるこの周辺の雰囲気である。


政治都市ハーグには平和宮と呼ばれる常設の国際司法裁判所もあって、米国の鉄鋼王カーネギーの寄付によるものでとても美しい建物である。


翌朝はアントワープへ向けて出発する日であるが、5時前に目が覚めて窓の外をみるとまだ暗い。
そのうち段々と明るくなっていく空の様子を飽きずに眺めていた。


季節感や語感を大切にした昔の日本人は夜明け前のこの変化を四段階で捉え表現する言葉を編み出した。
第一段階は「暁」で東の空が明るみ始めた頃、二段階は「東雲」で東の雲に明るい色がつきはじめる頃、三段階は「朝ぼらけ」でかなり空が白み陽の光が見えだした頃、四段階が「曙」でかなり明るさが進み日の出直前の頃、そして日の出となるという説を出発前に家内と議論したことを思い出しながら眺めていた旅に出た時の喜びや感動は、非日常の生活の中で単なる天然現象の中にも思わぬ発見をすることである。


バスで出発し途中ホーボーケンという街で小休止したとき、フランダースの犬の主人公ネロ少年と愛犬パトラッシュの記念像を見学した。
意外に小さな像で地元の人もその存在を知らなかったらしいが、日本人観光客が団体でぞろぞろ押しかけるようになって知られるようになったということである。
日本人とは何と物見高く話題を捜し回ることが好きな民族なんだろうと考えさせられた。


オランダ国境とベルギー国境をバスで通過したときには検問もなく,従ってパスポートのチェックもない。
それらしき建物もなく、異国へ入国しているという感覚が全くなかった。
ガイドに説明されなければ国境であるとは気がつかない。
日本で東京から関西方面へ旅する時、県境を何の感慨もなく通過するのと同じ感覚である。
これがEC加盟のヨーロッパの国々である。


写真:アムステルダム、ザーセスカンス、デン・ハーグ   
 

ブラッセル空港の入国審査の係員はやけに愛想がいい。
日本語を振りまいてはパスポートをちらっと見ただけで通してくれるから意外に早く入国審査を終えた。
迎えのバスに乗り込んで18時半にはアムステルダムへ向けて出発した。
2時間半の行程である。
ブラッセル市内を抜け出して郊外へ出ると折から木の芽時で木々の梢から萌えだした新緑がとても美しい。
今まで忍従の冬を凌いできた木の芽が一斉に迎春の喜TZBびを奏でているようにすら見える。
桜なのか胡桃なのか定かには判じがたいが満開である。
緑色の田野の先に点在する農家の屋根は橙色で周囲の景色の中に良く融けこんでいる。
空気はリンとしていて実に爽快である。


アムステルダム市街が近づくと飛行機の発着が頻繁に行われていることがよく判る空気が冷たいのでどの飛行機も派手に白い航跡を残して上昇し、或いは下降している3本も4本も航跡が交差している。
折から日没で太陽が高層ビルの合間に沈んでいく姿は感動的ですらある。


・航跡を 従え春日 街に落つ

翌朝、最初にアンネの隠れ家の見学に出向いた。

1926年にドイツのフランクフルトで生まれたアンネ・フランクは姉と両親の四人からなるユダヤ人家族であった。
ジャム用凝固剤を製造販売する会社を経営する父オットー・フランクの庇護下に裕福な生活を送っていたが、1933年ヒットラーがナチス党を率いて政権の座についたとき、身の危険を感じてオランダのアムステルダムに移住し暫くは安全に暮らしていた。


 ところが、1940年5月にマジノ線を突破して西部への侵略を始めたナチス軍が中立を宣言していたオランダを占領下に置いてしまってから状況は一変してしまう。
ナチスの党綱領に掲げるユダヤ人の非国家公民化政策でユダヤ系住民は公職から追われ、徐々に隔離されていくのである。
1942年7月6日アンネの一家は事務所裏の倉庫を改造した隠れ家に隠れ住むようになった。
1944年7月密告により連行されアウスシュビッツの強制収容所へ送られるまでのおよそ2年間にわたってこの隠れ家で書きつづった日記が「アンネの日記」で60以上の言語に翻訳されている。


隠れ家のある運河沿いのブリンセンフラハト263番地の建物には表の建物と裏の建物があって表の建物には父の経営する会社があり、一階が倉庫、二階から上が事務所と物置になっていた。
裏の隠れ家と表の事務所への往来は書棚で隠された秘密の出入口から行われた。
裏の隠れ家は当時の状態のまま保存され、博物館として一般の観光客に開放されている。
几帳面な字で書かれた日記のオリジナルも生々しい写真と共に展示されていて、戦争の愚かしさと人種差別に基づくホロコーストのおぞましさを訴え続けている。
これらの展示物を眺めていると当時の悲惨な生活が偲ばれてアウスシュビッツでのガス室のことに思いが及ぶと何とも名状しがたい身の毛のよだつ厳粛な気持ちにさせられる。





ゴッホ美術館にはあの燃え立つような向日葵とか糸杉の絵は少なく、僅かに1?2点あるだけであるが、馴染み深い自画像は数点展示されていた。
展示されている絵はなべてこれがゴッホの絵かと見直したくなるような筆致のおとなしい絵が多数展示さていて、ゴッホの知られざる一面を見ることができた。
そして興味をそそられたのは日本の浮世絵から多大の影響を受けたらしく浮世絵を模写したと思われるような作品が3点ばかり展示されていることであった。






アムステルダム郊外のザーセスカンス村で4基だけ残っている風車を見学した。
風の強いオランダでは動力源として最盛期には9000基以上の風車が全国至るところで見られたが、今では千基弱の数を留めるだけになっている。
産業革命以後動力源として蒸気、電気などにとって代わられたからであるが、オランダ産業の母体となったのはこの風車であった。
低地の国オランダでは干拓のための揚水機として風車が活躍しオランダの風景に欠かせない風物詩であった。




ザーセンスカンス村は干拓事業によって出来上がった土地であり、土地を区画して運河が縦横に走っている光景はオランダ独特のものである。


朝八時にアムステルダムのホテルを出発してキューケンホフ公園へ向かった。
とても寒くて4月とは思えない冷えこみである。
手袋を持ってこなかったので手がかじかんでしまい、バスの車内から外に出ていると冷たさが身に滲みる。


オランダと言えば何といってもチューリップであるが、この時期は開花にはまだ早く、畑では花が咲いているのを観ることはできない。
しかしこの公園では温室で色とりどりのチューリップの花や蘭の花を咲かせている。
もともとこの公園はヤコバ伯爵夫人の所有地で狩りの他に野菜やハーブの栽培に使用されていた家庭菜園であった。
これが1949年に花の公園として開園したのである。
七ヘクタールの広大な敷地にはチューリップを始め、ヒヤシンス、アイリス等の多種多様な球根の花の公園として著名である。
その花の数は六百万株にも及ぶという大規模なものである。
折から屋外の畑には黄色の水仙が今を盛りと咲き誇っていたし、チューリップも蕾が膨らみ始めていた。
温室に入るとそこにはありとあらゆる種類のチューリップが色とりどりに咲き誇っていて来園者の目を楽しませてくれる。
それにしても氷雨が降る程寒くて戸外には出たくなくなる程の悪天候であった。


公園を後にしてデン・ハーグへ向かった。
デン・ハーグで昼食を摂った後、デルフト・ブルーで有名な陶器工場を見学した。
レンブラントの絵を模写して作った大きな陶板画が印象に残った。


マウリスハイツ美術館には逸品が多い。



主なコレクションはレンブラント、フェルメール、ルーベンス、ファン・アイク、ヤン・ステーン等であるが、レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」やフェルメールの「デルフトの眺望」「青いターバンの女」が特に有名である。
美術館の建物自体もオランダで最も美しい建物の一つに数えられている。


政治の都市とも言われるハーグ市内の一角に湖の上に浮いているかのように見える美しい建物群がある。
ビネンホフと呼ばれる建物群で国会議事堂や総理府、外務省等の政府機関である。
国会議事堂は騎士の館が転用されたもので13世紀から17世紀に建てられた建物であり、華麗な中にも荘厳さを併せもった佇まいで、これがヨーロッパだと思わせるこの周辺の雰囲気である。


政治都市ハーグには平和宮と呼ばれる常設の国際司法裁判所もあって、米国の鉄鋼王カーネギーの寄付によるものでとても美しい建物である。


翌朝はアントワープへ向けて出発する日であるが、5時前に目が覚めて窓の外をみるとまだ暗い。
そのうち段々と明るくなっていく空の様子を飽きずに眺めていた。


季節感や語感を大切にした昔の日本人は夜明け前のこの変化を四段階で捉え表現する言葉を編み出した。
第一段階は「暁」で東の空が明るみ始めた頃、二段階は「東雲」で東の雲に明るい色がつきはじめる頃、三段階は「朝ぼらけ」でかなり空が白み陽の光が見えだした頃、四段階が「曙」でかなり明るさが進み日の出直前の頃、そして日の出となるという説を出発前に家内と議論したことを思い出しながら眺めていた旅に出た時の喜びや感動は、非日常の生活の中で単なる天然現象の中にも思わぬ発見をすることである。


バスで出発し途中ホーボーケンという街で小休止したとき、フランダースの犬の主人公ネロ少年と愛犬パトラッシュの記念像を見学した。
意外に小さな像で地元の人もその存在を知らなかったらしいが、日本人観光客が団体でぞろぞろ押しかけるようになって知られるようになったということである。
日本人とは何と物見高く話題を捜し回ることが好きな民族なんだろうと考えさせられた。


オランダ国境とベルギー国境をバスで通過したときには検問もなく,従ってパスポートのチェックもない。
それらしき建物もなく、異国へ入国しているという感覚が全くなかった。
ガイドに説明されなければ国境であるとは気がつかない。
日本で東京から関西方面へ旅する時、県境を何の感慨もなく通過するのと同じ感覚である。
これがEC加盟のヨーロッパの国々である。


アンネの隠れ家模型

ゴッホ美術館

ザーセスカンス。
風車

ザーセスカンス

民族衣装の女性

木靴

花畑

キューケンホフ公園のチューリップ

アムステルダム。
腕木のある建物。
荷物を吊るして建物の中へ入れる。

マウリスハイツ美術館

フェルメールのデルフト市街図

ヤン・ステーンの絵

ハーグ。
平和宮

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